昭和33年春、熊本管内菊池税務署に胸を踊らせて初出勤したものの、その後にやらされた仕事といえば、来る日も来る日も、所得税確定申告書から課税台帳にその内容を転記する仕事ばかり。当時は所得税申告書に記載されたそのままの内容を課税台帳に転記することになっていて、所得税係全員が確定申告後の4月一杯ぐらいまでかかって、この仕事にかかり切りになっていたのである。部内職員の懸賞提案が採用されて、申告書そのものを課税台帳に代用するという現在のシステムに変わったのは、ずっと後年になってからのことである。 単調な仕事では、後年の脳裏に残る出来事などあるはずがない。いきおい、記憶として留まっているのは宿直勤務の方に多い。何しろ、赴任早々から、月間20日間もの宿直をこなしていたのだから、それも当然だろう。今回は宿直にまつわる出来事を書いてみよう。
発展家?の用務員
宿直は、用務員さんと2人1組となって勤務する。赴任した菊池税務署には2人の用務員さんがいた。年輩の方の佐々木さんは60代で白髪まじりのいがぐり頭、日中は郵便物を出しにいったり、中庭や庁舎のまわりを清掃したりしていた。いかにも好々爺という感じ。もう一人は、今野さんという40代のがっしりした体格の人で、日中は官用車の運転手をしていた。 今野さんと何回か宿直するようになって、ほどなくして気付いたことがある。夜の食事の時間が異常に長いのだ。食事は交代で外出して取ることにしていたが、まず、職員の私が先に食事をするために下宿先に帰る。食事後は、とんぼ帰りして庁舎に戻り、彼は私と入れ代わりに食事に出る。 ところが、午後6時、10時と2回の署内巡回を終えてもまだ帰って来ない。夜中の11時頃に、そろそろ寝ようかと布団を敷く頃になってやっと戻ってくるのである。 悪いと思うのか、「午前2時の署内巡回は自分がまわるので寝ていていいですよ」などという。 何かの折りに、隣の席の山本アントク先輩にそれとなく聞いたところ「彼はね。発展家だから彼女がいるんだよ」と言っていた。 なるほど、言われてみれば思い当たる節もある。今野さんと宿直を組んだ夜は、決まって、真夜中の午前2時になると、電話がリーンと鳴るのである。今野さんは、受話器を取ると「おう、サンキュウ」とだけ言って受話器を置く。それからのっそりと起き上がり、巡回時計を肩にして署内巡回へと出かける。 巡回時計というのは、何カ所かのポイントにぶら下げられているキイを時計に差し込んで回せば、裏蓋内に納められているカードに、巡回した時間が記録されるもので、これのためにズルして巡回をすっ飛ばすことができないというすぐれもの。
目覚まし代わりは電話局の交換嬢 それにしても、目覚まし代わりに電話のベルが鳴るというのは、誰かに電話するように頼んでいるに違いない。アントク先輩がいう彼女じゃないか。確かめてみたいと常々思っていたが、チャンスはなかなかやって来なかった。受話器をわざわざ自分の枕元に置くので、こちらから手をのばしても、彼の方に先に取られてしまうのである。それでもチャンスはやってきた。アルコールが少々入っていたのか、今野さんが寝入ってしまっていて、1回、2回とベルが鳴っても起きなかったのである。すかさず私が手をのばして受話器を耳にあてると、電話の向こうは若い女性の声。 「2時よっ、なに寝ぼけてるの。巡回でしょっ」 一瞬、どう答えたらいいかためらっていると、横の今野さんが慌てて飛び起きて、受話器をひったくると、いつものように 「おう、サンキュウ」、ガシャンと受話器を置く。 初めて声を聞くことができたが、奥さんにしては声が若い。チャンスとばかりに追及することにした 「今野さん、誰なんですか。若い女性の声でしたよ」 「エヘヘヘ……、あのね、電話局の交換嬢なんですよ。彼女らはひと晩中起きているでしょう。だから、午前2時になったら、ベルを鳴らして貰うように頼んでいるのよ」 当時は今みたいに自動ではなくて、市外通話は電話局の交換嬢を呼び出して通話の申し込みをしていたから、夜間ではあっても、常に交換嬢は待機していた。 「今野さんの彼女なんですか」 「いやいや、そんなんじゃないですよ。夜中はね、市外通話の申し込みもなくて、彼女らも退屈しているでしょう。退屈しのぎになるからと言ってOKしてくれてるの」 それ以上の追及はやめたが、今野さんは発展家だというアントク先輩の言葉は正しいのではないかという疑念を強めるには十分な出来事であった。 取り戻しにきた差押えのオート三輪。 その今野さんと組んだ宿直で、思わぬ事件にも遭遇した。 その夜は2人して午後11時には床についた。うつらうつらしていた時にド~ン、ド~ンという物をぶっつけるような音が聞こえてきたのである。 菊池税務署の建物の配置は、正門を入ってすぐの所に庁舎建物、そのすぐ裏に宿直室などがある別棟、庁舎の左手に空き地兼駐車場、そして左手奥に自動車2台ほどが入る車庫があった。車庫にはいつも署長専用車が入っている。車庫の扉はまだ戦後の趣を残す板戸で、中央に材木のような太い木をカンヌキに通して、南京錠で固定している。 どうやら、物音は車庫の方角から聞こえてくる。 「今野さん!今野さん!車庫で音がしていますよ」 隣で寝ていた今野さんも目を覚ました。ド~ン、ド~ンと物音は続く。 「おっ、車庫だっ。今日差し押さえしてきたオート三輪が入っているんですよ。取り戻しに来たんだ」 今野さんは、官用車の運転手であるから、車庫の管理は自分の担当である。何が起こっているか即座に判断した。 2人してステテコ姿のまま駆けつけると、50年輩の男性が斧を振り上げて、カンヌキめがけて叩きつけている。 「おいおい、何してるんだ!ここは税務署だよ」 今野さんは腕っ節は強そうである。相手が斧を持っていてもひるむところはない。 「税務署がなんだ!ほら、そこに見えとるんは俺のオート三輪や。俺の物を持っていくのが何で悪い」 車庫の板戸は下に数十センチの隙間があって、中のオート三輪の一部が見えている。男はフラフラしているところを見ると相当に酔っぱらっているようだ。今野さんが飛び掛かって難なく斧を取り上げた。 「この車がないとあしたの仕入ができんのよ。何で取り上げるんだ」 男は涙声になった。 「それは、あんたが税金を払わんからでしょう」 取りあえず署長に報告の電話を入れて、指示を仰いだところ、 「別に被害がなかったら、そのまま帰しなさい」 と寛大な指示。車庫のカンヌキを調べてみたが、相当に頑丈にできているとみえて、ビクともしていない。もっとも、男は酒に酔ってフラフラしていたから、手許も狂っていたのであろう。取り上げていた斧を返して 「今日はこのまま帰って、明日は酒を飲まずに係官のところに相談に来なさい」 と諭すと、うなだれたまま黙って帰っていった。 佐々木さんと組んだ宿直では泥棒に入られたこともある。 「竜さ~ん、竜さ~ん」と私を呼んでいる声に、飛び起きて駆けつけると、巡回中の佐々木さんは耐火書庫の扉の前にいた。書庫の前にはバールやらスパナやら道具が一面に散らばっている。 「泥棒は2階に逃げました」 という。バールなどの道具を持ってきているからには、凶器を持っている可能性もあるが、2人いれば心強い。懐中電灯の灯りをたよりに2階にトントンと駆け上がったとたん、ガラリと窓が開く音がして、次には裏庭にドス~ンというもの凄い音。賊は窓から飛び降りたのである。そのまま逃げられてしまったが、さすがに耐火書庫、バールにもスパナにもびくともぜすにがっしりと閉まったままで、耐火書庫は火事にも泥棒にも強いことを証明してみせたのであった。 もっとも、収納された税金は、その日のうちに銀行に預けられるので、耐火書庫の中は書類ばかりで金目のものは何も入っていない。たとえ、開いたとしても、収穫などあるはずはないのだが……。
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