昭和37年7月、私は宮崎・日南税務署直税課所得税係への転任辞令を受けた。その年の4月に提出した身上申告書の希望する勤務地欄に第1希望・日南税務署と書いたから、ずばり、希望どおりとなったのである。 もっとも、日南地区に縁故があったり、特別に事情があったりして希望したわけではなくて、身上申告書の提出時期の直前に行った部門旅行が、たまたま日南であって、すばらしい景観や人情にふれて感動したからという単純な動機でのものであるから、そんなに第1希望が特別な意味があったわけではない。日南旅行をしたといっても、日南地区に足を踏み入れたのは、海岸沿いのサボテン公園と鵜戸神宮だけであって、肝腎の日南市内には一度も行ったことはなかったのである。 日南市は、山の手から順に飫肥(おび)、吾田(あがた)、油津の3地区に分けられる。飫肥は、飫肥城跡もあって旧城下町。油津は、有名な漁港もあって港町、一番の繁華街でもある。吾田は、その中間にあって、市役所とか丹下健三氏設計の文化センターとかがあって、文教地区の趣があった。当時の日南税務署は飫肥地区にあった。官公庁などは市役所がある吾田地区にだんだん集まってきていて、飫肥地区に残っていた唯一の官庁ではなかったかと思う(後年になって日南税務署も吾田地区に移転している)。 日南税務署は管内に串間市、南郷町、北郷町などを有していて、管轄区域が広いためか、職員数も50人ほどいた。東京局管内の税務署からみると、小さくてものの数にも入らないだろうが、宮崎では県庁所在地の宮崎税務署でさえも職員数は90人ほどしかいなかったから、当時の私達の評価は、宮崎の次位を延岡と争うほど大署というイメージがあった。
日南署所得税係 日南税務署も中心は所得税係。係員が一番多かった。 係長は坂元係長。サカモトといえば普通は坂本姓が多いが、鹿児島や宮崎地方では本ではなくて、元の方が多い。坂元係長も鹿児島の出身であった。係員は上位から順に若松さん、渡部さん、大石さん、堀さん、萩原さん、私、末席が山本さん。税務署に入って4年有余にして、初めて私は末席の地位を脱することができた。山本さんは私より2期後輩である。ここでも法人税係に山本姓がいて、山本さんだけは、みんなトヨタカさんと名前で呼んでいた。山本豊孝というのがフルネームである。 若松さん、渡部さんは、地元出身でいかにも温厚なタイプ。宮崎県人は人情家で他人と争うことをしないと巷間よくいわれるが、これは的を射ているようで、市内でもよく繁盛している大きな店は決まってオーナーが他県出身者の店なのである。 大石さんは鹿児島県大隅半島の出身、萩原さん、山本トヨタカさんが宮崎・小林市出身、堀さんは大分出身。ユニークなのはこの堀さんで、1メートル90センチはあろうかと思うほどの大男。柔道6段の猛者なのだそうである。ケンカをしたら強そうだけれども、一緒に勤務した2年間では一度もそのようなことはなかった。
体長2メートルの大うなぎ捕獲 そういえば、ケンカではないけれども、一度だけその大物ぶりの片鱗を見せつけられたことがあった。大うなぎと格闘して掴まえてきたのである。 飫肥地区の中央を酒匂川が流れている。その上流に堀さんが出張した時のこと。たまたま歩いていた川沿いの道路から川を見たところ、浅瀬になにやら巨大な生き物がうごめいているのを見つけたのだという。川原に下りていって確かめたところ、体長2メートルはあろうかという大うなぎだった。すぐさま、川に飛び込んで大格闘が始まった。大うなぎにしてみれば、浅瀬で遊弋していても、少々のことでは捕まえられないという自信があったのかも知れないが、何しろ相手が悪かった。相手は柔道6段で身長1メートル90センチの猛者だったのである。激闘20分の末に、あえなく生け捕りにされてしまった。丁度、橋の上を通りかかったバスがこれに気づき、橋の上に臨時停車して、乗員、乗客とも欄干に身を乗り出して見物していたという。 生け捕りにされた大うなぎは、税務署に連行されてきて蒲焼きになったが、残念ながら味の方はいまいちであった。 大うなぎ捕獲の証拠が見たかったら、当時、熊本国税局が発行していた職員向け小冊子「熊本税友」の巻末近くにページを設けられていた管内ニュースの欄を見れば納得されるに違いない。そこには、渡部さんが頭上に手を高くかかげて、大うなぎをぶら下げている写真が載っている筈である。渡部さんが1メートル55センチほどの身長しかない小柄な人だったから、ことさら大うなぎを大きく見せようとして被写体に選んだということでもないのだが、たとえ、そうであったとしても、大うなぎの巨大さには仰天するだろう。
下宿の近くで魚釣り 私の下宿先は、飫肥地区の川に沿った場所に用意されていた。周囲は畑でポツンと1戸だけ建っている。本宅は50メートルほど離れた道路沿いにあって、駄菓子やら雑貨類を売っている小さなお店。川越さんといった。川沿いの下宿専用の建物は4部屋あって、ここは下宿人だけが寝泊まりする。日南工業高校の先生、県事務所の職員などの先住者がいた。下宿人の世話は川越さんのおばあちゃんがやってくれて、食事などは本宅から運んでくる。 この下宿人の先生も気さくな人で、工業高校でデザインでも教えているのかデッサンを描くのがうまく、私が自室で税を知る週間用のポスターを書いていると、気軽に修正の筆を入れてくれるのであった。県事務所の職員は確か井川さんといった。県立病院の看護婦さんをしている彼女がいて、時折、下宿先に訪ねてきていた。その井川さんが、ある時、ポツリとつぶやいたことがある。 「人生、30までやなあ。30までで一応はなにもかも経験し終えるもの」 これには、びっくりして思わず顔色をうかがったりしてしまったが、井川さんにも悩みがあったんだろうと思う。 それにしても、この下宿には気に入った。すぐ近くに川が流れているところがいい。私の郷里にも川があって、中学生頃まではよく釣りをしたものである。釣った魚の正式な魚名称は知らないが、地元ではシビンチャといっていた。体長数センチの小魚で、背びれやお腹のところに赤や青のきれいな色がついている。 童心にかえって、早速、釣り具一式を買ってきて、アフター5には釣り糸を垂れることにした。 えさはミミズ。家の周辺は畑だから、掘り返せばいくらでもミミズがいる。あまり釣りをする人もいないとみえて、小魚が面白いように釣れる。魚の方も宮崎県魚(?)なので警戒心が全くないのである。 そのうちに、近所の子供達も集まってきて、一緒に釣りをするようになった。下宿のおばあちゃんは心配になるとみえて 「あまり、子供達に気を許しちゃ駄目ですよ。評判のよくない子もいるようだから」 などという。1軒家といっても、田舎は家に鍵をかけるということはしないから、確かに無人の昼間などは不用心にはなる。しかし、私の財産といえばテレビぐらいのものだし、あとの二人はテレビさえ持たない。夜になれば、私の部屋のテレビを見に集まってきて、車座になってテレビを見るのである。不用心だからといって、集まってくる子供達を追い返すわけにもいかないし、いつも、わいわいがやがやと魚釣りは続いた。 「おじちゃん。投網は買わない?魚がいっぱい取れるよ」 「投網?誰が持っているの」 「父ちゃんが3千円で売ってもいいって」 「投網ねえ。あれだと魚はたくさん取れるだろうけど、許可がいる筈だよ」 「誰の許可がいるの?」 「漁業組合みたいなのがあるんじゃないかな。そんなにたくさん取っても食べるわけじゃないからね。釣りだけでいいよ。楽しいじゃない」 この少年の言葉が、親の意向を代弁していたのか、本人の意思なのかはわからなかったが、少年はその後も毎日のようにやってきて、ミミズを取ってきたり、えさを付けてくれたり世話を焼いてくれるのであった。
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