初めて設けられた教育官補ポスト 昭和39年7月、私は思いもかけない転任辞令を受けることとなった。 思いもかけなかったというのは、まだ、日南税務署に赴任して2年しか経っていなかったので、転任するなんて考えてもいなかったからである。 しかも、辞令は何度見ても「税務大学校教育官補に配転する」となっている。税務大学校は、従来の税務講習所がその年4月に名称変更になり、税務大学校となったもので、それは知っていたが、教育官補というポストは、この年に初めて設けられたもので、当然に何の予備知識もない。 日南税務署に別れを告げて、とりあえずは税務大学校熊本研究所に出頭してみた。私達が生徒としてここに寝起きした(全寮制になっていて、たとえ実家が熊本市内にあっても、寮に入らなければいけない)のは、7年前である。 当時の教育官は総変わりしていたが、職員の中には懐かしい顔もあった。教務係の三上さん、看護婦の野村さん。 教務係の三上さんが声をかけてくれる。私達が生徒の頃からのお母さん役であった。 「あらら、いらっしゃい。また、ここに戻ってきたわね」 「私の仕事は、どんな仕事になるんですかね」 「今の生徒のお兄さん役よ。あなたの机はここの教務係にあるけど、主任教官の直属になるらしいから、そちらで指示を受けることになるのかしらね」
教育官補は160人の生徒の寮長役 主任教官は2人いて、青柳先生は当時40代前半で、もう税務署副署長を歴任しておられた。もう一人の小山先生の方は、もっと若くて30代前半。すでに鹿児島・伊集院税務署長を歴任されていた。青柳先生が九州大学出で小山先生は東京大学出である。 三上さんに案内されて、挨拶に行く。 「ああ、よくきたね。大事な仕事だからお願いしますよ」 「どんな仕事になるのですか」 「寮に寝泊りして、生徒達の相談相手になって欲しいんだ。今の24期生は160人もいるのでね。宿直の教育官だけでは目が届かない部分も多いんだよ」 どうやら、輪郭は見えてきた。寮長役をやって貰いたいということらしい。 「昼間は、教務係に席を作っておいたから、教務係の仕事を手伝ったりしたらいいんじゃないかな。外部の先生のときは、教室を見回ったりしてくれればたすかるなあ。あまり、授業に身を入れない生徒もいるようだから。160人じゃあ、後ろの方では何をしているのか分からないものね」 「そんな生徒がいるんですか」 「いる筈だよ。だって、どんな科目でも50点以下の追試試験組が10人は出るものね」 本試験での50点以下の得点は、赤点といって追試試験となる。追試試験でも50点以下であれば、卒業することはできない。私達が生徒の頭には、赤点を取る人などいなかったが、当時の生徒数は29人と少人数だったから、居眠りするにしても、場違いのことをするにしても先生のすぐ目の前のことで、すぐにわかってしまう。 そういえば、1人、民法の授業中にタバコを吸って、熊本大学の伊藤教授に怒られた者がいたこともあったっけ。生徒は大半が高校を出たばかりの未成年者だったが、2年、3年の年長の人も中にはいて、成年に達していた生徒もいたのである。
強いられる規則正しい生活 再び寮生活をすることになった私に与えられた部屋は、西寮の入り口を入ったすぐ左側にあった。北寮と南寮は昔からあって、教育官が宿直で寝泊まりする部屋は北寮の1階にある。宿直用の部屋だけは畳敷きだったが、生徒が使う各室は2段ベットで部屋は板張り。2人で1室を使う。西寮は7年前の私達の生徒の頃はなかった。まだ建てられて数年しか経ってないのであろうか、新しかった。西寮の各室は畳敷きで3、4人の共同部屋になっているのに、将来の教育官補制度を予め想定してあったのか、私に与えられた部屋は4畳半の畳敷きで、一人部屋になっていた。 寮生の日課は決められていて、規則正しい生活が強いられる。
午前7時起床、ラジオ体操、清掃 午前7時30分朝食 午前9時から12時まで授業 正午から午後1時まで昼食、休憩 午後1時から4時まで授業 午後4時から5時まで課外授業 午後5時夕食、入浴 午後6時から8時まで自由時間 午後8時から10時まで自習時間 午後10時点呼 午後11時消灯
こんな時間表になるが、午後8時からの自習時間は、私達が生徒だった7年前と比べると随分と緩やかな扱いになっていた。7年前は午後8時には必ず外出先から帰ってきて寮内に居なければいけなかったが、もう、そのような時代遅れの扱いはなくなっていて、外出していても、午後10時の点呼にさえ間に合うように寮に帰っていれば、それでOKとなっていたのである。
また始まる午前7時起床の生活 小山先生が続ける。 「体育の授業には、必ず出てくれないかなぁ。村山先生も160人じゃ目が届かないだろうから」 体育は1週間に1時限(1時限は90分授業)の授業がある。村山先生は、私が生徒だった7年前は熊本大学の教育学部教授だった。夏には熊本大学のプールまでつれていってくれて、水泳の授業を受けたこともあった。 先生は、その後に熊本大学を定年退官されて、私大の学長を歴任され、学長をやめられたあとは付属の幼稚園の園長をされているのだという。その間ずっと一貫して税大の体育授業を担当されている。相当なお年になられていると思うが、かくしゃくたるものがある。 私が生徒の頃は、市内上通り繁華街にあるパチンコ店でよくお見かけした。 パチンコがお好きとみえて、一心にはじかれている。挨拶すると 「おお、この店は私の親戚がやっていてね。よく出るだろう」 と見事にたくわえられた花ひげをピクピクと動かしながら、自慢げに話しておられたものである。 教務係の自席に帰ると、三上さんがレクチャーしてくれる。 「23期生の時に心中未遂事件があってね。そんなこともあって、お兄さん役が必要だと考えたんじゃないのかしらね。女性の方はあなたの後輩よ。熊本商高の女生徒なんだって」 「熊本商高も、私がいた頃は昔の男子校の名残りで生徒数は男子7割、女子3割だったんですよ。ところが、いまは女子7割、男子3割に逆転しているんです。女子が増えるのも良し悪しですね。問題は起こすし、野球は弱くなるし…」 「あなたも大変ね。午前7時起床で、ラジオ体操がまた始まるのよ」 「早起きは別に辛くはありませんがね」 そうはいっても、一旦、自由気ままな生活に馴染んでしまった体質が、簡単にもとに戻るわけがない。 「生徒じゃないんだから、気楽にやりますよ」 最後は自分にも言い聞かせるような、この言葉で気持ちを慰めるしかなかった。
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