ゼイタックス

4話 労組菊池支部結成

人事異動
 赴任して3ヵ月ほどが、あっという間に過ぎた。

 7月は恒例の人事異動の月である。昭和33年当時は内示などなかったから、7月10日の辞令交付当日になって、初めて内容を知る。
 税務職員は、平均して3年で異動になると聞かされていたので、異動規模にはさほど驚きもしなかったが、菊池税務署直税課所得税係にも大幅な入れ替えがあった。
 平井係長が転出して、後任に田麦係長がきた。平井係長は後年に国税局所得税課長になったことでも分かるように、いかにも切れ者という感じがしたが、後任として来た田麦係長は全く反対のタイプ。色浅黒くあけっぴろげで、軍服を着せれば火野葦平の「麦と兵隊」に登場しそうな人である。
 次席の坂梨さんが転出して、後任には福島さんがきた。いつもニコニコしていて温厚なタイプ。3席の甲斐さんは、私の教育係をつとめてくれたが、転出して菊川さんがきた。菊川さんも共稼ぎで、奥さんが学校の先生をしているのだとか。単身赴任で、私と山本アントク先輩が下宿している原田さん宅に下宿することになった。5席の堀内さんも転出した。
 後任ということではないが、私より1ヵ月ほど遅れて、本科研修を終えた木庭さんが赴任してきていたのである。木庭さんは、ずっと後年になってからであるが、査察官になって、あの天下一家の会ねずみ講の担当者となって活躍されることになる。
 田麦係長、福島、永杉、菊川、木庭、吉田、山本、そして末席に私というのが、新所得税係の布陣である。

大変な引っ越し作業
 人事異動そのものは、大幅な異動があっても、予めそういうものだという認識があったから、さほど驚くこともなかったが、びっくりしたのは、その引っ越し作業。
地方局の人事異動は、都会局と違って、家族とともに住居を移るのが普通であるから、引っ越し作業をしなければならない。当時の赴任期間は辞令交付から7日間となっていた。この7日間は仕事どころではなくて、毎日、のこぎりやら金槌などの用具を腰に差して出勤し、前半の4日間ぐらいは転出していく人の荷造りに追われ、後半3日間ぐらいは転入してくる人の荷おろしに追われる。まだまだ道路事情が悪かった時代だから、舗装路でないところを引越荷を積んだトラックは走るので、梱包は厳重なものにならざるを得ない。
 タンスには、米屋さんから貰ってきた菰をかぶせ、その上から板で四角い枠を作ってタンスが動かないように固定して、さらに繩をかける。板を打ち付けた枠も、ガラスになっている所には、その一面に板で目隠しのように覆いをつけなければならない。これらは男性の仕事だが、奥さん達も動員されて、こちらは茶碗類を手際よく新聞紙などでくるみながら、果物屋さんから貰ってきたみかん箱に収納していく。
 毎年やっていることとはいいながら、皆の手際のよさには、ただただ呆れるばかり。
 私は荷造り用の縄の結び方が分からなくてとまどったが、何回か教えてもらって、やっとそれも出来るようにはなった。
 私は熊本国税局管内での勤務は10年間であるが、後半の3、4年ぐらいには道路事情がよくなったりして、家具類には毛布をかけただけで搬送できるようになっていたから、道路整備はかなりハイピッチで進められていたのであろう。現在のおざなりの公共事業投資と違って、当時の公共事業は生活に密着したものであったのだ。

赴任してきた労組の最高幹部2人
 もう一つ、その年の人事異動で特筆すべきことがあった。徴収管理部門に城さんと徳永さんが赴任してきたことである。苗字だけ並べても、何の特筆すべき点があるのか分からないだろうが、お2人は南九州税務職員労働組合(略称:南九税職組)の幹部で、城さんが委員長、徳さんが副委員長をしておられた。南九税職組は、労組員200名足らずのちっぽけな組織ではあったが、熊本国税局管内唯一の労組であった。福岡国税局管内は労組は存在していなかったから、熊本局管内というより、九州全域で唯一の労組でもあったのである。
 お2人が来る前には菊池税務署には、南九税職組の菊池支部というものはなかった。1人も組合員がいなかったからである。当時の熊本国税局管内税務職員数は約2、000人。そのうちの200人が労組員というのでは、40人ほどのちっぽけな税務署に労組加入者が1人もいなくても不思議ではない。そこに2人、それも最高幹部が赴任してきたからたまらない。猛烈なオルグが始まった。
「今度ね、本部で大会があるんだけど出てみない?」
「私は労働組合にはあまり興味ないんです」
「しかし、当局のいいなりになっていたら、職場環境なんかちっとも改善されませんよ。給料だって不満でしょう」
「給料には不満はありますね。私は7等級1号俸を貰っていますが、1期上の先輩は7等級3号俸なんです」
「えっ、なんで。だってあなた達の1期上は税務署に入って2年でしょう。特別昇給なんか関係ないはずですよ」
 私が税務講習所に入ったのは昭和32年4月1日。研修期間は1年間で、そこでの給料は行政職8等級2号俸である。1年経って税務署に赴任し税務職7等級1号俸になった。あとは1年経過するごとに1号俸ずつ昇給することになる。なぜ、1期先輩が1号俸飛び越えて先をいくかというと、原因は昭和32年の人事院勧告。その年の給与に対する人事院勧告で昭和32年3月31日現在で在職する職員については、1号俸上に切り替えるとあったのである。私達の同期は採用が32年4月1日であるから、1日遅れで該当しないことになり、1期先輩から上だけが恩恵を受けることになった。
「ほら、ごらんなさい。同期といったって10人もいないでしょう。あなた達だけで不満を言い合ってもどうにもなりません。当局は柳に風で受け流すだけですよ。組合に入ってバックアップを受ければ対応も違います。どうですか。一緒にやりましょう」
 給料のことを言われると確かに弱い。今のところ、給料の全額が下宿代に消え、宿直料で小遣いを稼いでいるようなものなのだ。映画も観たいが、入場料金120円の封切り映画は手が出ないので、毎週木曜日にかけられる入場料金10円の古い映画を観るのがやっとである。
「そうですね。私も職場環境の改善なんかだったら、労組は必要だとは思っています。しかし、政治的に動くのはいやですね」
「うちらの労組はね。政治活動に力は入れてませんよ。じゃあ、もう少し経ってから菊池支部結成大会を開きますので出席してくださいね」

労組支部結成に19人が参加
 このような経緯があって、なんとなく労組に加入したような形になってしまった。
 聞いてみたら所得税係の大半も労組に加入するという。労組菊池支部を立ち上げる追い風になった、もう一つの要素というのもあった。新任の署長がいやに細か過ぎたことである。署長人事は一般職員よりも10日ほど早く発令になり、一般職員の辞令交付は新署長の手によって行われる。キャリア署長に代わって赴任してきたのは、叩きあげの署長であった。その早々に起きた出来事である。同僚の堀内さんが、転任先の税務暑に電話を入れ住宅の確保や家財の移送日などをやり取りしていたところ、通りかかった署長が
 「私用電話はするな!」と受話器を取り上げガシャンと切ってしまったのである。
 転任辞令を受けて、転任先の税務署に打ち合わせの電話を入れるのが、私用なんだろうか。公用ではないか。いきさつを見ていた周りのみんなも、これには憤慨してしまった。
 こういうことがあって、今度の署長は細かすぎるという評価が定着してしまったのである。
 南九州税務職員組合菊池支部は、それから間もなくして結成大会が開かれた。19人が参加したから、署員の半数が加入したことになる。
 税務職員労組の結成は珍しいこともあってか、マスコミも駆けつけ記事にもなった。結成大会が派手だった割には、その後の活動には見るべきものがなかったようにも思うが、記憶にとどまっているものはない。

 ちなみに、私達(普通科17期)の給料だが、2期後輩の19期生以後は7等級への格付けが6ヵ月短縮され改善がなされたが、17期生と18期生だけが取り残され、東京の御用組合でも取り上げるようになって、是正されたのは10数年後のことであった。

5:密造酒部落を急襲