ゼイタックス

3話 初めての実地調査

受け払い調査
 赴任して、1ヵ月ほどが経って、税務職員本来の仕事ともいうべき実地調査が始まった。申告水準が低いと思われるものを抜き出して、店に臨場して税務調査を行うのである。
 私は、税務講習所を卒業して、それなりに税法は勉強したが、実地調査は初めてであるから、先輩に同行して貰うことになった。
 私の教師役を命ぜられたのは、甲斐先輩である。甲斐さんは当時40代であったろうか、菊池税務署所得税係では3席の地位にあって、ちょっと前頭が禿げあがっていて見るからに切れ者という感じの人であった。
 連れて行かれたのは市街地にある自転車店。昭和33年当時は、青色申告者はわずかしかいなかったと思うが、この自転車店は帳簿をつけていて、ちゃんと青色申告をしていた。実地調査対象に選定したのは、申告水準が低いということにあったようである。早速、調査が始まった。
甲斐先輩の注文がくる。
「自転車の受け払いをやってくれないかな」
「受け払いといいますと?」
「期首の棚卸表に新車の台数が出ているやろ。それに仕入伝票と帳簿を確認しながら仕入台数を加えれば、何台この店に新車が入ってきたかわかるから、これから売った台数を帳簿で確認して差し引いていくのよ。残った台数が、期末の棚卸表の台数と合っていればいいけど、違っていれば、売った台数か棚卸がおかしいということになる」
 なるほど、そういうことなのか。
 受け払い調査は、自転車に限らず電化製品など高価な商品には有効であることから、私がひとり立ちした後にも何回も使ったが、その原点となったのが、この時の調査にあった。
 自転車店の調査では、若干の台数もれが見つかって、増差所得をあげるのに貢献したからかどうかは分からないが、調査が終わって署に帰ってから
「いやあ、さすがに今の人だね。物わかりの早いのにはびっくりしたよ」
 と、甲斐先輩のお褒めの言葉があったのを、今でもはっきりと記憶している。 

初めての単独調査
 甲斐さんとの同行調査は2週間も続いたろうか。ある日、平井係長が全員の前で言った。
「今日から新人教育は全員にやって貰います。毎朝、私が伝えるので、その人はその日の調査に同行させてやってください」
 平井係長は、後に国税局所得税課長にもなった人。調査手法には人それぞれに特徴があって、私にもそれらをまんべんなく身に付けさせようと考えたのであろう。最初の赴任で、そういう上司に巡り会えたのは、私にとって幸せであった。
 それから1ヵ月ほど経った頃、平井係長が私を手招きした。
「もうこれくらいでいいだろう。今日から1人で調査に行ってもらうよ。5件ほど選んでみたんでね。言っちゃ悪いけど、慣れるまではと思って、どうでもいいような所ばかり選んだから、増差は出なくってもかまわない。業界のしきたりや調査手法が書いてある解説書が業種別調査法という業種別の小冊子になっていて書庫にあるはずだから、持って行って参考にしたらいいよ」
 渡された調査カードはいずれも白色申告者のもので5枚。
 調査カードというのは、過去数年分の課税事績やら調査事績などが簡記されていて、調査の際に携行する。二つ折りになっていて、中には収集した取引先資料などが挾まっている。
「今日はどこに行くね」
「じゃあ、調査カードの一番上にある美容院にします」
「美容院ね。女性ばっかりだからね。色仕掛けにやられないでね。ハハハハ……」
 平井係長は破顔一笑である。
 早速に書庫からひっぱり出してきた業種別調査法の美容院なる小冊子を探し出してきて、一通り目を通した。
 理髪店には月に1回は客として行くから、料金システムも仕事の内容もわかるが、美容院には一度も行ったことがない。あたり前だ。今でこそ男性客が足を運んでも少しも違和感はないが、当時は男性が足を踏入れる場ではなかったのである。
 解説書によると、コールドパーマと電気パーマがあって、コールドパーマの方が値段が高いのだという。そのほかにカットというものもあって、これは安いという。女学生がオカッパ頭ですそをそろえているが、こういうのをカットというであろうことは想像がつく。
 座卓の下に調査の“虎の巻”を隠して……
 その美容院は市街地の一角にあった。
「税務署から調査にきました」というと、経営者の女性が出てきて、「お上がりなさい」という。若作りで美人である。もっとも、化粧はお手のものだろうから、もっと年がいっていたのかも知れないが、30代にも見えた。インターンらしい若い女性が3人いて、こちらは中学を出て間もないのか、好奇心いっぱいの目で見つめている。当時は徒弟制度の名残りでお小遣い程度の給料で技術を習得させる習慣があった。お客はまだ1人もいない。店舗の奥に畳敷きの間があって、そこに座卓を置いての調査が始まった。
 白色申告であるから帳簿らしきものはない。所得調査法の小冊子を座卓の下に隠して、それをチラチラと盗み見しながら質問する。
「コールドパーマの客は1日に何人ぐらいあるんですか」
「コールドねえ。そう5、6人かしら。カットのお客さんばかりなのよ。うちの前は学生さんの通り道でしょ」
「電気パーマの客はどのくらいいますか」
「電気パーマ?」
 一瞬けげんな顔をしていたが、次の瞬間には顔をくしゃくしゃにして笑いだし、
「ねえ、電気パーマだってさあ」
 と店の女の子達に声をかけた。のぞき見したくてウズウズしていた感じの女の子が一斉に駆け寄ってきて私の周りを取り囲む。
「おたく、さっきから机の下の何を見ているの?」
仕方がないので、業種別調査法「美容院」という小冊子を机の下から取り出して上にあげると、今度は全員で大笑いである。
「その調査法は古いわよ。電気パーマをかけていたのは、もう4、5年前のことよ。今は電気パーマをかける人なんかいないわよ。ねえ」
 女経営者が最後は女の子達に同意を求めると、女の子が一斉に、
「電気パーマのお客なんてないよ。私達、かけかたも知らないも~ん」
と唱和する。 

一応無事調査終了
「この人な~に」
「税務署の人だってさ。去年のお店の利益がどのくらいあったか調査に来てるの」
「ふ~ん、若いからインターンなのかね。お給料貰ってるのかしら」
「失礼ね。あなた達とは違うのよ。いっぱいお給料いただいてるわよ。ねえ、そうでしょう?」
「いや、それほど沢山は貰っていません。公務員は給料安いですから」
「でも、お役人さんはいいわよ。ほら、老後に恩給があるでしょう。私達は年を取っても何の保障もないもんね」
「いいなあ、私も公務員のお嫁さんになろうかなあ」
 1人の女の子がいうと、まわりがきゃっきゃっと笑い転げ、もう、後はてんやわんや。
これでは税務調査にならない。早々に切り上げて署に帰った。
 署では平井係長がひとり留守番をしていた。
「いやに早く終わったじゃない。成果はあったの?」
「いや、成果どころじゃなかったです」
 女性4人に周りを取り囲まれ、散々な目にあったことを報告すると、今度は平井係長が笑い転げる番であった。
「ほら、色仕掛けに気を付けろと言った通りだろ。でも今日のところはそれでいいか。申告是認の処理をしときなさいよ」
「はあ、申し訳ありません」
 ろくな調査ができなかったことの申し訳なさと、何の予備知識もない業種を選んでくれたことへの恨めしさと半々ではあったが、表面上は神妙に謝って、初めての単独調査は無事に終了したのであった。

4:労組菊池支部結成