ゼイタックス

第15 生徒は税大普通科24期生

7時半起床も大半は布団の中
 昭和39年7月、教科を担当する教育官ではなく、教育官補という中途半端な肩書きを得て、私は税務大学校熊本研修所へ赴任した。主な任務は寮長といった方が早いだろうか。生徒と寝食をともにして、生活指導をしてほしい、というのが上司から説明された仕事の内容である。上司というのは2名いた主任教育官。指導すべき生徒は普通科24期生で、この研修所だけで160人もいる。前年の23期生あたりから採用者を大幅に増やしたのだという。特に九州地区は人材の供給源となっていて、23期生もそうだったが、この生徒達も大半は東京・大阪国税局管内に配属になるのだとか。
 午前7時、北寮のサイレンの音が鳴り響く。これが起床の合図であって、7年前と変わりがない。早速、中庭のテニスコートに行ってみる。ここがラジオ体操の集合場所である。
 4、50人が集っているが、全員にはほど遠い人数。指導役の委員に聞いてみると、「まだ、寝ているんでしょう」という。寮にとって返し、各部屋を覗いてみると、案の定大半はいまだに布団の中にいる。
「起きろ! ラジオ体操が始まるぞ」
「もう、7時なんですか」
「何いってるの。サイレンが鳴ったじゃない。君たちは卒業したら東京勤務になるんだよ。そんなことじゃ遅刻ばかりすることになるね。通勤時間1時間なんてのは、東京ではざらなんだから」
「先輩に聞いたんですけどね。東京はこちらより1時間早く夜が明けるんだそうです。早起きは苦にならないって言ってましたよ」
「明るくなるのは早いだろうけれども、時間は日本全国どこでも一緒なの。屁理屈ばかり言ってるんじゃない!」
 怒鳴りつけると、渋々起き出してきてくる。

やんちゃ坊主と優等生は1年おき
 次の日からは、起床のサイレンが鳴ると、各部屋をまわって生徒をたたき起こすのが日課になってしまった。
 それでも、24期生は全体的におとなしく、職員の受けは良かった。
「やんちゃ坊主と優等生は1年おきのようだね。昨年はひどかったからね」
 などという。私は23期生は知らないが、次の年の25期生も短期間ではあったが担当した。そういえば、25期生はやんちゃ坊主が多かったから、1年おきというのは的を射ているようである。
 生徒は160人を10班に分けて、1班から10班まで各教育官がそれぞれ担当となっていたが、4班と5班に優等生が多かったように思う。出身高校でみると日南高校出の生徒は粒が揃っていた。日南高校出身者は6人もいたのである。
 ある時、その背景を当の生徒に聞いてみた。
「なんで税務職員を受験したの?」
「23期の先輩がいるんですが、税務職員と八幡製鉄の両方に受かっていたんです。その人が八幡製鉄を蹴って、税務職員の方を選んだんです。上場会社を袖にするぐらいだから、いい所なんだろうなあと思いましたね」
 八幡製鉄は、その後に新日本製鉄となるが、九州地区では圧倒的な人気と知名度を誇る会社である。純情無垢な学生には、インパクトを与えたのかも知れない。
 私の母校、熊本商高出身も4人いた。4人のうちで1番出来がよかったのは夜間部の卒業者。熊本商工には県内でも数少ない夜間部が併設されていて、彼は昼は市内の鶴屋デパートに勤務しながら、夜間部に通ったのだという。苦労人だったのだろう。
 しばらくするうちに、私のまわりに集ってくる特定の生徒が決まってきて、親衛隊のようなものができあがった。性格はいいんだが、どうしたものか、成績はいまいちのものばかり。

取り巻き連中は追試験の常連組
 一の子分のように、つきまとってきたのが高橋雅春クン(高橋姓は2人いて、もう一人の名誉のためにフルネームにした)。長崎県諫早高校の出身だったが、いつも50点未満の赤点を取って、追試験を受けること10数回。税大新記録を作って卒業していったほどの追試験の常連だった。そういえば、彼が本試験で試験勉強をしているところは見たことがなかったが、追試験となると、試験前は缶詰にして勉強させることになる。追試験でも50点未満だと卒業できないが、すべて追試験はクリアーして卒業していったことから考えると、真剣に勉強すればできる人物であったのかもしれない。
 あとは、流合(はぎえ)クン、和田(修)クン、野口クン、永尾クン。
 う~ん、なんか8班あたりの生徒が多そうだなあ。8班の先生は杉浦先生だったっけ。この先生もユニークで、生徒達に受けはよかった。
 時には囲碁大会なども開催したが、杉浦先生は初段だといって頑として譲らない。私は菊地税務署時代は4級で打っていて、町の碁会所でもこれで通用した。日南税務署では2級になった。こちらに来て娯楽室で杉浦先生と何度も手合わせしたが、私の方が、ずっと戦績は良かった。それからすると杉浦先生の実力は2級か3級ということになるのだが、杉浦先生は正式な初段の免状を持っているのである。お聞きしたら、通信教育で初段の免状を取得したとおっしゃっていた。ご当人の主張もあるし、正式な初段の免状を持っている人を2級や3級に格付けはできないとなって、杉浦先生を基軸にして全体的に格付けがインフレになってしまい、私も、ここでは初段格になってしまった。
 私の取り巻き連中も、杉浦先生の影響を受けたせいでもないと思うが、いいかげんな生徒たちが多く、追試験の常連組だった。しかし、この連中は高橋クンに比べると、まだましの方だった。永尾クンなどは親御さんが学校の先生だと言っていたから、遺伝子学からいうと、優秀な頭脳を受け継いでいる筈であって、勉強すれば相当の能力を発揮できたと思うんだが…。
 もっとも、親分役の教育官補たる私が、一度も本人達に「勉強しろ」などと言ったためしがないのだから、本人達が真剣に勉強する筈もない。

はまってしまったダンス
 何をやっていたかというと、毎日、午後5時過ぎになると市内繁華街へ繰り出していた。お目当ては上通り繁華街にあったダンスホール「アベスタジオ」。
 ここの、阿部よし子先生はかなりの美人。スロー、スロー、クイック、クイックと手を取って教えてくれた。生徒の平松クンなどは、はまってしまってダンスシューズまで揃えたほど。ダンス教師の資格を取るなど言って張りきっていた。彼は背丈は低かったが、運動神経は抜群で上達も早かった。
 私も、かなり、はまってしまった方ではある。ある時、風邪をひいて熱は出る鼻水は出るという症状で、今日は行くのは無理という状態になった。しかし、生徒達は「行きましょう」と誘いをかけてくる。「風邪ぐらいなんですか。アンプルを飲めば症状は治まります」
 といって、かぜ薬のアンプルを2本も買ってきてくれた。用法を読んでみると1日に1本とある。2本飲めというので一気に2本とも飲んで出かけたら、踊っているうちに耳がツーンときて、鼓膜がおかしくなり、ダンスミュージックの音がはるかかなたで鳴っているような感じになった。そう、トンネルの中にいるような状態とでもいえばわかりやすい。この状態は翌日も1日中続き、2日後になってやっと正常にもどった。
 かぜ薬アンプルの副作用で命を落とす人も出はじめて、社会問題にもなって、薬局の店頭からアンプルが姿を消すことになったのは、ずっと後のことであるが、そんな問題点があることなど露ほども知らなかったとはいえ、今になって考えてみると、無茶なことばかりやっていたように思う。
 ダンスの方は、運動神経が鈍いこともあってか、遅々として上達せず、マンボ、ジルバ、ルンバ、ワルツまではこなしたが、タンゴだけはいくらやっても駄目であった。

16:硬派系と軟派系