ゼイタックス

第19 同期の仲間の陣中見舞い

転勤する秘訣あり
 昭和39年7月、私が税務大学校熊本研修所の教育官補になって、再び寮生活に入ると、陣中見舞いということか、次々に同期の仲間たちが研修所を訪ねてきた。
 私が、7年前の生徒だった頃の厳しい規則に束縛された生活に舞い戻ったと勘違いしたらしい。ちなみに、私の同期17期生は29人が卒業して、うち19人が福岡局管内、10人が熊本管内に配属になった。
 まずは、近隣の宇土税務署に勤務していた高浜君。済々高校の出身で実家は熊本市内にあったから、実家に立ち寄ったついでに訪れたのだろう。お父さんも税務署長だった人で親子二代の税務職員。おっとりしていて、この人は敵を作らない。
「なに、また、かごの鳥になったの?」
 私たち17期の卒業文集「棕櫚(しゅろ)」に、私は「税講生活異常あり」と題して一文を書いているが、「出るに出られぬかごの鳥」と、規則に縛られた研修所生活を嘆いた箇所があって、それを覚えているのであろう。気の毒そうな顔をする。
 「まぁ、規則には縛られていますがね。私達が生徒の頃と比べたら、随分と穏やかになっている」
「どういうところが?」
「午後8時からの自習時間が、実質的にはないようなもので、外出は午後5時から10時まで自由になっている」
「えっ、それはいいなあ。俺達の頃は午後8時には寮にいなければいけなかったじゃない。午後5時からといっても、夕食と風呂の時間があるからね。実質は2時間しか外に出られなかったもの。時間がなくて家にも帰れなかった。熊本市内なのに…」
「今は、私もちょくちょく帰っている。家は水前寺公園の近くだから、2時間じゃ厳しいけど、4時間あるからね。十分に往復の時間はあるよ」
「それで朝はどうなの? 7時のラジオ体操に出なければいけないの?」
「あとは、当時と全部同じだね」
「俺は朝は弱いなあ。俺にやれったて無理だね。頑張ってね」
「どうせ、1年間だからね」
「それは最初からそう決まっているの?」
「決まってはいないけど、私には秘策がある」
「どんな秘策?」
「簡単よ。4月1日で提出する身上申告書に、結婚するから転勤させてくれ、と書けば一発よ。この仕事は寮生活だろ。独身じゃないと駄目だから、転勤せざるを得ない」
「もう、決まった相手がいるんだ」
「いや、それはいない。出ていくための方便というやつでね。たとえ、結婚しなくったって破談になったと説明すれば、それで十分じゃない」
「アハハハ…、そういうことか。1年で出られるんだったら俺もやってもいいな」
 おっとり刀でかけつけてくれた彼も、納得顔で帰っていった。

学校側が心配した労組活動家の来訪
 次に駆けつけてくれたのが城戸さん。この人は転勤すること3署目。卒業時の赴任は山鹿税務署だったが、ほどなく種子島税務署に転勤になり、ここ2年という暗黙の了解事項があるので、任期満了で熊本税務署に戻ってきた。
 何を話したか記憶にないが、高浜君と同じような会話になったと思う。ただ、違ったことが一つだけあった。
 城戸さんが帰ったとたんに、主任教育官の青柳先生が、血相をかえてすっ飛んできたことである。
「城戸君が来ていたんだって?」
「ええ、同期ですからね。激励に来たんでしょう」
「生徒には会っていなかっただろうね」
「生徒は授業中でしたからね。誰とも会っていないはずです」
「彼は労組の活動家だからね。生徒には会わせないようにしてね」
 城戸さんが卒業時に赴任した山鹿税務署には、南九州税務職員労組(南九税職組)の城委員長と徳永副委員長が在勤していた。その影響もあったのか、ほどなく労組に加入してかなりの活動をしていたのである。
 南九税職組は系列としては総評系で、東京でいえば全国税労組あたりに通じる。東京では当局の御用達の同盟系国税労組と、相反する総評系全国税労組が、労組未加入者の争奪戦行っていると、はるか1千キロも離れた熊本にも噂として耳に入ってきてはいたが、生徒達は当然に今のところまっさらの状態であって、学校側としては事前の洗脳を心配したのであろう。

私も組合員なんですが……
「私も南九税職組の組合員なんですがね」
「えっ、それはないだろう」
「菊池税務署にいた時に、委員長の城さんと副委員長の徳永さんが転勤してきたんです。勧誘されて労組に入りました」
「それは過去のことだろう。ここの前は日南税務署だったよね。そちらでは、どうだったの?」
「日南税務署に南九税職組の支部はありませんでしたね。だから、そのままに…」
「組合費などは?」
「払っていません」
「自然消滅というか脱退だね」
「別に脱退届は出していませんよ」
「そんなのは形式だけだからね。キミが思想的に大丈夫ということは裏付けが取ってある。アハハハハ…」
 う~ん、そうであったか。当時は安保騒動で世の中は騒然としていた。60年安保騒動の時に、大統領訪日の先兵として、秘書官ハガチー氏が成田空港に降り立ったが、車がデモ隊に取り囲まれて都内に入れず、米軍のヘリコプターで脱出するという事件があって、大統領訪日は取りやめになった。これで退陣になったのが岸首相。「私には声なき声が支持している」と有名に言葉を吐いた。そういえば、私も、当時の周辺の人達に、「私も声なき声の一人だ」と随分と言いふらしていたっけ。それが当局の耳に届いていたか。 あまり、こういうことは公言しない方がいいようだ。
 善意で陣中見舞いに来てくれた同期の仲間なのに、城戸さんの来訪は、学校側にとっては、好ましからざるものとなったようである。

胸がドッキンとした署長の娘の来訪
 来訪者で胸がドッキンとしたのは、日南税務署時代の酒井署長の娘さんが来た時。正月の年始に招かれ、この娘さんのお酌でご馳走になった。私に直接の面会ということではなくて、勤務している銀行の預金の勧誘であったが、教務係の三上さんが「酒井署長の娘さんがみえているわよ」と呼びに来たのにはびっくりした。酒井署長は、私が日南を離れたその年に定年退職されている。
 ついでに、生徒の預貯金について触れておこう。
 この頃までは、郵便貯金であった。給料日に各人からの依頼をとりまとめ、私が郵便局の窓口まで持っていっていた。その後に八十二銀行に変わった。銀行員が給料日に学校まできて、手続きをしてくれるというので、そうなったのである。
 酒井署長の娘さんが勤務する銀行が八十二銀行であったかどうかは、さだかではない。