ゼイタックス

5話 密造酒部落を急襲

どぶろくの原料は残飯
 昭和33年当時、菊池税務署管内にはどぶろく密造部落が存在していた。
 終戦直後は酒を購入しようにも、酒屋さんの店頭に酒が並ぶことは少なかった。酒好きな人には耐えられなかったとみえて、何人もの人が、工業用アルコールを口にしたりして、有害なメチールアルコールで命を落としたり、失明したりしたのを身近に見聞きしたものである。
 商品がなければ、当然のように闇で造る者が現われる。どぶろくの密造部落は各県に1ヵ所ずつぐらいは存在していて、それを取り締まる税務署に摘発されてはまた造るというイタチごっこを繰り返していたのである。
 管内にそういう部落ができる要素となったのは、近くにハンセン氏病の療養所恵楓園と結核療養所再春荘があって、残飯が大量に出るという好条件があった。これを貰い下げてきて酒造りの原料にするのだという。
 税務講習所での酒税法の先生は井上先生だったが、私達同期の中では、出身が共に山鹿市ということもあったのか、大林君がお気に入りだった。大林君は後年になって国税労組の幹部にもなる人物だが、井上先生が大林君を指名する口調には特徴があった。オウと引っ張らないのである。
「オバヤシクン、清酒の原料は何かね」
「米、米こうじ、水です」
「はい、そうですね」
 酒税法の酒の原料に残飯という言葉は出てこなかったが、密造部落では、現にそれを原料にしてどぶろく酒を造っているのであるから、作り方次第では酒になるということであろう。
 どぶろく密造部落急襲の報道は、毎年1回は新聞紙上でも大きく報じられていたから、セレモニーと化していたような面もあった。30人ほどがトラックに乗って一気に乗りつけるのである。菊池税務署は間税課は4人しかいなかったから、直税課からも徴収管理からも応援が出て総動員態勢。私も出動した。間税係から渡されていたのは細長い棒。どふろくはカメに入れられて土中に埋められているので、それでつつけというのである。
 現場に到着して驚いた。人っ子一人いなくてもぬけの殼。山本アントク先輩もいたが、この手際のあざやかさを聞いてみたら
「こんなのセレモニーなんだよ。来る途中に見張りがいてね。連絡されているの。見とってごらん。どぶろくが入ったカメが1つか2つはちゃんとわかる所に置いてあるよ」
「それが今日の収穫というわけですね」
「そう、向こうも空振りさせては悪いと思っているのさ」
 それにしても、この汚さ。周りは豚小屋で豚の糞と尿が入り交じり異様な匂いを放っている。この光景を見たら、誰もどぶろくなんて飲む気にはならないだろう。先のとがった棒は持っていたけれども、土中を突き刺すという気にもなれなかった。
 収穫は山本アントク先輩の言ったとおり、どぶろくがいっぱい入ったカメが2つあっただけであった。
 私が出勤したのはこの1回だけで、翌年からの出動記憶はない。社会情勢がよくなって、どぶろく密造部落そのものがなくなったか、あっても摘発するほどの大がかりな密造はなくなってしまったかのどちらかだったのだと思う。

どぶろく調査に名を借りた調査
 どぶろく密造の強制調査といえば、ちょっと良心のとがめるようなこともあった。
 市内に大変繁盛している雑貨店があった。ところが、所得申告が非常に低かったのである。当時は賦課課税制度の名残りで、権衡査案会議というものがあって、係全員が集まり、各店のランク付けをしていた。A店が所得100万円ならB店は90万円ぐらいか、などといってけんけんがくがく議論しておおよその目安を決めるのであるが、この雑貨店は常に上位にあげられるのだけれども、申告水準は低かった。当然に実地調査対象に選定されてベテラン調査官が調査に赴くのだけれども、端緒が得られない。いつも空振りで歯ぎしりするばかり。
 そこで考えついたのが、どぶろく密造での強制調査。
 裁判官をどう説得したのかはわからないが、強制調査の令状をせしめてきたのである。
 私は出動しなかったが、従事した山本アントク先輩から話は聞いた。
「いやあ、令状を見せたとたん目を白黒させていたね。なにっ、どぶろく密造?だって」
「本人もこれには驚いたでしょうね」
「どぶろく飲んだことあるだろう。持っているだけで違反だって怒鳴ったら黙っていたけどね。誰だってどぶろくぐらい飲んだことはあるから、そうかなって思ったんだろう。それはいいんだけれど、みんな神棚の中とか仏壇の引き出しとかばかりかき回して、カメの一つも覗こうとしないんだもの。参ったね」
「何か収穫はありましたか」
「何もないね。あそこだけ格別さ。店構えだけで判断するのは通用しないよ」
 とうとう、お手上げの状態になってしまったが、このような無茶なことができたのも、この時代までで、現在このようなことをやれば、自分の首が飛ぶ。

苦手だった数学、英語
 今思えば、あまり実のある仕事はしていなかったようにも思うが、残業はかなりしていた。冬に暖房用として使うストーブは1年中そのままにしてあったから、残業が終わればストーブのまわりに集まり、スルメをかじりながらコップ酒を汲みかわす。
 一番の酒豪は永杉さんである。いつもニコニコしながら、ぐいっぐいっとおいしそうに飲む。感心したのは、どんなに飲んでも崩れないこと。飲んで宿直室に泊まり込んだという記憶もなくて、いつも、オートバイにまたがって帰っていった。50キロぐらい離れた玉名郡の南関町という所からオートバイで通勤していたのである。
 現在なら、たとえ酔ったそぶりを見せなくても、酒気帯び運転で一発でアウトになるところだが、町の中は時折オート三輪が走るぐらいで、乗用車などまるで走っていなかったから、事故さえ起こさなければ、少々の酒ぐらいでは咎められることもなかったのである。
 その頃、私の教育係をしてくれていたのが本科帰りの木庭さん。
 この人の頭の良さにはいつも感心させられた。
 いつだったか、残業中に超勤手当は1時間当りいくらなんだろうと山本アントク先輩と計算を始めたことがあった。本俸と調整手当を加えて25日で割ってさらに8時間で割って125%を掛ければいいのかなあと話しながら計算していたら、木庭さんが横から覗いて「それじゃ駄目ね。1日は7時間20分で計算しなきゃ」という。8ならすぐ計算できるけれども7時間20分ではどう計算していいかわからない。私は英語と数学はからっきし駄目なので、とまどっていたら「私が計算してあげよう」とソロバンをはじいていたが、「出来たよ。本俸と調整手当を加えた金額に0.00656を掛けた金額が1時間当りの超勤手当だね」という。これなら私にだってなんとなく計算できる。
 事業税の控除算式も木庭さんに作って貰った。その年中に事業を廃止した場合は、翌年に事業税がかかるが、これは当年の経費で落としてやらなければならない。この計算が難しい。当時の事業主控除がいくらであったかは記憶がないが、たとえば10万円だったとすると、その金額を控除した残額に4%なり5%の事業税がかかる。ところが、この翌年分事業税は事業所得が出たあとでないと計算できない。その事業所得を出すには翌年分事業税を差し引いた後でなければ出ない。鶏が先か卵が先か。
 頭をひねって考えていたら、いとも簡単に算式を示して教えてくれた。
 本科って凄いところだなあと感心したものだが、その本科に丁度10年後に私も学ぶことになる。今思うと本科が凄いんじゃなくて、木庭さん本人の頭がすばらしかったということらしい。
 ついでに、英語についていうと、数年前に地下鉄都営三田線の水道橋駅ホームで外人の女性に「アキハバラ、アキハバラ」と尋ねられた。どうやら秋葉原に行くにはどちら側に乗ればいいか聞きたいらしい。冗談じゃない。三田線は秋葉原なんか通らない。JR水道橋駅と間違えたらしい。しかし、日本語で教えるのはやさしいが、悲しいかな英語で言えるのは「サブウェィ、ノウ」ぐらいのものだから、これには慌てた。
 改札口の駅員の所まで連れて行って、あとは駅員に任せた。
 高校時代にもう少し英語や数学に身を入れててたならばと、後悔しても、もう後の祭りである。

6:養鶏業の所得標準率表を作る