民間会社への転出を考える 日南地方は気候は温暖で、しかも、人情は豊かときているから、過ごし易さということでいえば、わが国でも有数の場所といえるだろう。私は昭和37年から39年の2年間しか日南税務署に勤務しなかったが、十分にそれを実感として味わった。 しかし、日南在職中に、民間会社への転出を考えて、願書を提出しているのである。何が不満だったかというと、最大の理由は給料の低さ。私は、赴任した時に24歳になっていた。まだ、結婚適齢期には早いけれども、もう、そろそろ考えなければならない時期ではあった。当時の給料は月額1万円ぐらいだったと思うが、これは額面での話だから、手取りとなると、この70%ぐらいがいいところ。7,000円から下宿代の4,500円を払えば残るものは何もない。差し当たってはアフターファイブに魚釣りをするぐらいでカネがかからないからいいが、これでは結婚どころか、準備資金さえできる見込みがない。 菊池税務署時代は、私が一人で宿直を請け負っていて、月に20回もやっていたので、そちらで下宿代は賄えたから、給料の安さをそれほど深刻に考えることはなかったが、日南に赴任したとたんに宿直回数が減って、収入が激減するという事態に直面して愕然としたのである。日南署には、独身者が私を含めて3人もいたから、宿直依頼も分散してしまう。その3人のうちでも、私が一番の先輩になるので、どうしても若い人に譲らなければならない。同僚の山本トヨタカさんが2期後輩、関税課には3期後輩の他村さんがいて、みんな市内に下宿生活をしていたのである。 現在は、公務員給料も民間に比して遜色がないが、当時はやはりかなりの差があった。 上司が「貯金はできないけれども、毎年、退職金が増えていくのが貯金だと思っている」などと話すのを聞くと、我ながらうんざりとした。 そのような時に、新聞広告で九州石油という会社の中途採用者募集の広告が出た。九州石油が設立して間もない頃だったと思う。私は願書を提出したのだが、10日後には書類選考で不採用の通知がきた。試験ぐらい受けさせてよさそうなものなのに、門前払いではお話にならない。挫折感といったら大げさになるが、一時期、落ち込んでいたことは間違いない。 ついでに言っておくと、私の28年間の国税勤務の中で、もう一回、民間会社の中途採用者募集広告に願書を出したことがある。それは上京後の昭和46年のこと。当時、私は練馬税務署の法人源泉係長をやっていた。一番信頼してた部下が退職願を出してやめて行ったのがショックとなったのである。中央大学の夜間部を出ていて、法律事務所に職を求め、司法試験合格を目指すと言っていたが、それは表向きで、係全員でボーリング大会をした時に一人留守番役で残したのが悪かったのかなあと自責の念にかられた。この時は筆記試験には合格したが、二次の面接ではねられた。会社はロッテである。当時のロッテ社長は税務講習所時代の恩師、坂本先生。話を通じていたら合格していたかも知れないが、それはしなかった。
熱心に結婚を勧められるが… 日南署での宿直は減ったとはいっても、月に5、6回はやっていた。日南署にも用務員さんは2人いて、組みになって宿直をするのだが、運転手の八久保さんとはいいコンビだった。当時40歳ぐらいだったろうか。どちらかというと優男タイプ。八久保さんも菊池税務署の今野さんと一緒で、夕食に出たまま、深夜まで帰ってこないというところは似ていた。彼女がいたのかどうかは知らないが、運転手というのはどこにいてもモテモテであるとみえる。 ある日のこと、一人で留守番役をしていて、風呂を沸かそうとして水道の蛇口をひねったら、ゴムパッキンがはずれて水が止まらなくなったことがあった。菊池税務署には風呂がなかったが、日南税務署には五右衛門風呂が備え付けられていたのである。 水は勢いよく蛇からどんどん噴出して、風呂場一面水浸しになってしまった。水道の元栓の位置を聞こうにも相棒の八久保さんはいない。思案にくれていたら、たまたま総務課の大浦さんが近くにきたからと署に立ち寄ってくれたので助かった。すぐに元栓を閉めて水は止まった。 「もうひとりは誰なの?」 「八久保さんなんですがね。夕食に出ていったまま帰ってきていないんです」 「しょうがないわね」 そう、会話でわかるとおり、大浦さんは女性なのである。30歳にはなっていたのではないかと思うが、宮崎・小林市の出身で宮崎県人らしい気だてのいい人だった。後輩の山本トヨタカさんは、後年に大浦さんの妹さんを嫁さんに貰うことになる。 宿直の相棒をしばしばつとめた八久保さんからは、熱心に結婚を勧められた。 「龍さん、今年、高校を卒業したばかりのかわいい子がいるんだけどね。どう?嫁さんに貰わない?」 「そんな、まだ無理ですよ。私の給料は1万円ですよ。やっていける筈がないじゃないですか」 「給料なんか問題ないって。資産家で山を持っているの」 日南・飫肥地区は飫肥杉の産地として有名である。気候が温暖で雨量も多いことから、飫肥杉は弾力性があって、船材として最適なのだとか。 日南地区での著名な山林所有者に服部家と川越家があって、毎年、日南税務署の所得長者番付の上位は両家の人達の山林所得で占められてしまう。 こんなこともあった。 その年は、アメリカの高校に留学している服部家の娘さんが、所得番付第3位になっていた。山林所有者の名義が娘さん名義になっていたのであろう。それはそれでいいんだが、問題は実家から送金されていた多額の学費。本人が高額所得者であるのに、学費だからといって非課税というのはおかしいというので、贈与税を課してしまったのである。 資産税係長の大坂間さんは得意満面だったが、それでよかったんだろうかと今もって考えてしまう。
給料倍増も物価も上昇 八久保さんが勧める娘さんの実家も、服部家、川越家ほどではないにしても、山林を所有しているという。そうであるならば、公務員の安月給など確かにあてにはしないだろうが、それではこちらのプライドが許さない。 「相手の財産をあてにするようじゃ情けないですからね」 「しかしねえ、給料だけっていうのも大変ですよ」 「政府が所得倍増計画だとかをやってくれるそうだから、そのうちに給料もよくなるんじゃないですか」 口ではそういったが、本心はいつまでもよくならないだろうなあというのが偽らざる気持ちである。 所得倍増計画というのは、昭和35年だかに時の池田総理が「今後10年間で国民の所得を倍増させます」とぶち上げたものだが、考えてみると、当時の経済成長率は年間6、7%の伸び率だったから、これは当然に予想されることであって、別に驚くほどのことでもなかったのであるが、響きはよかった。 現実をみてみると、そんなにバラ色の将来があるわけはない。私の過去の給料ひとつみても、昭和32年の採用時の給料が月額4,300円、5年後の現在、昭和37年には1万円になっているから、10年どころか、わずか5年間で倍増していることになるのだが、給料が上がるにつれて、物価も上がるから、実質的な質の向上につながっていない。当時は工賃や給料などコストが上がると、すぐに、製品価格にはねかえっていたから、それも当然であろう。 「龍さんは市川雷蔵に似ているって向こうの家族に話しているんですよ」 「私がですか。冗談じゃないですよ。そんなこと誰にも一度も言われたことはありません」 市川雷蔵は当時の人気時代劇俳優。若くして亡くなったが、ちょっとニヒルな面もあって、映画などで活躍していた。 八久保さんだけではなくて、周辺の人達から、それとなく結婚話を持ち込まれるようになったのは事実である。それは24歳になったのだから、自然の成り行きなのだろう。
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