景気が冷えている、不景気だ、とあちらこちらで言われている中、最近は見積依頼が増えてきているという。見積依頼が増えるということは景気が回復しつつあることの表れなのだが、慎重な見方の中には、一円でも安いところに発注しようとしているから見積依頼が増えているのであって、実際の仕事は増えていない、という意見もある。見積と受注は結びつかないというわけだが、税務調査でもこの点がチェックの対象になる。
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見積書と請求書の関係
日暮里電機は電機工事を主力とする法人。屋内配線が主だが、依頼主の要求によりエアコンやネオン看板を取り付けることもある。 税務調査は見積書と請求書を照合するところから始まった。 「見積書がありながら請求書のないものがありますが、これはどういう理由によるものですか」 調査官は経理部長に尋ねた。 「どういう理由って、あなた、見積したもの全部が受注になるということはないのですよ」 経理部長は呆れたと言わんばかりの返事をした。 「確かに確かに、そうですよね。見積したもの全部が受注になれば、そんなありがたいことはありませんからね」 「当たり前ですよ」 経理部長は突き放すように答えた。 「そうしますと、受注簿がありますね。受注簿を見せてください」 「受注簿……」 経理部長は予想外の要求に声を詰まらせた。調査に備えて関係書類の見直しをしてきたのだが、受注簿までは目を通していなかったのだ。 「見積と受注が一致しないということは、受注簿があるということですよね」 調査官は最初から「受注簿を見せて欲しい」と言うと「ありません」と逃げられてしまうので、先に、見積と受注は一致しないことを確認したのだ。 経理部長は逃げ道を失い、受注簿を提示した。 「受注しても工事をしているとは限りません。現場が変更になったり、工事日程が合わなかったりする場合には、工事を断ることもあります」 経理部長は、受注簿と請求書を照合されると、受注簿にあって請求書にない現場が出てくることを予測して先回りして答えた。 調査官の質問に先回りして答えることはよくあることだが、調査官は先回りして答える裏には何かが隠されていると疑う。調査官の次の質問を遮るような答えは、調査官を疑いの道に導き出すだけだ。 「工事を断ったのはどの現場ですか。先にうかがっておきましょう」 「どこの現場だったのか、覚えていません」 「こちらから工事を断るのですから、覚えているはずではありませんか。それとも、記憶できないほど数が多いのですか」 「そう何件もはありません」 「では、私からお尋ねしましょう。上野診療所の新築工事、これはどうされましたか」 調査官は受注簿に記載されていながら、請求書の出ていない現場についてひとつずつ尋ねていく。 「そこは確か、日程の都合で取り止めになった所です。診療所は工事を急ぎますからね」 「上野診療所の見積書を見ますと、大型の空調機があります。そして、仕入帳を見ますと、この大型空調機は仕入れられています」 「工事は取り止めになった」と聞いて「はいそうですか」と納得するのは新米の調査官だ。見積書や工事依頼書から大型の部品や器具を拾い出し、それが仕入れられているかどうかを調べ、仕入れがなされていれば工事は行われたと判断するのだ。 「返品したか、別の現場に回したものと思います」 「返品したのであれば返品したことの分かる書類、他の現場に回したのであれば、それが分かる書類を見せてください」 「私が探すのですか」 経理部長は自分の仕事ではないという顔で答えた。 「そらの書類が出せないのであれば、売上が漏れているものと判断します」調査官は強気だ。 申告された売上金額に漏れがあると言うなら、それを立証する責任は税務署側にある。しかし、このような場面になった場合は逆だ。売上に漏れがないことを立証しなければならないのは会社側だ。 建築主が脱税などで作った裏金を持っている場合には、このようなことが生じることがある。建物本体を裏金で建築すると直ぐにそれと分かってしまうので、電気工事や内装工事に裏金を使い、「領収書はいらない」ということになるのだ。調査官は発注者側の事情にも明るいベテランである。 「領収書はいらない」と言われると売上を隠したくなるのは脱税者の性。大型空調機の 仕入はそのままで売上だけを落とす単純な脱税だ。
請求書綴りの枚数 「この請求書綴りは50組あるはずですが、残っている控えの枚数を数えると48枚しかありません」 調査官は、請求書を破棄して売上を落としたのではないか、とは言わずに尋ねる。 「書き損じたものと思います」 「書き損じたものには斜線が引かれています」 「破り捨てることもありますよ」 「領収書も同じですか」 「領収書?」 「領収書も2枚足りません」 「書き損じですよ」 「そんな安易なことでいいのですか。領収書を破棄したら事実が分からなくなるではありませんか。社員の不正を防げないではありませんか」 脱税の手口と社員の不正の手口は一緒だ。会社が領収書を破棄して脱税をするなら、社員は同じ方法で売上金を着服する。 「社員に不正を働くものはおりません」 「前後の請求書の日付からしますと、破棄されているのは6月中旬です。同じように領収書の日付を見ますと、6月下旬です」 「はあ……」経理部長は、だからどうした、という顔をして答えた。 「証拠がなければ答えられないというのですね」 「どういう意味ですか」 「お互いの時間の節約と思ったのですが、仕方ありません。仕入先からの納品伝票を元にお聞きしましょう」 調査官はこう言って6月初旬の納品伝票を開いた。請求書を破棄し、領収書を破棄していることからすると、工事先は一般の家庭と思われる。工事先が店舗や事務所であれば、先方から工事をした資料が出ることがあるので、このような乱暴な脱税はしないはずなのだ。 「6月3日に家庭用エアコンの仕入れがありますが、これはどちらの現場ですか」 「クーラーの時期ですから、それがどこに取り付けられたかは分かりません。何しろ数が多いですから」 「1台は山川邸直納、もう1台は大山邸直納とあります。山川邸と大山邸に関する売上はどれですか」 「どこかの工務店からの依頼だと思います。ですから、山川様とか大山様という売上はないと思います」 「私は破棄された請求書と領収書がこの2枚ではないかと思うのですが、いががですか」 「そのようなことはありません」 なかなかしぶとい経理部長だ。 「そうですか、それでは宿題を出しておきましょう。仕入金額10万円以上の器具や備品について、ひとつひとつ売上先と売上金額を調べ出しておいてください。2日もあればできますよね」 経理部長も強気だが、調査官も強気である。これらの器具や備品について売上が漏れているという証拠立ては難しいが、売上が正しいという証拠立ては容易である。仕入れた商品がどこに納品されてどの売上に計上されているのかを示せばいいのだから、難しい宿題ではない。 調査官が出した宿題は、本来は会社側の仕事ではないが、調査官は請求書と領収書の一部が破棄されていることを理由に、会社の経理内容が正しいことを立証するよう求めたのだ。
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