ゼイタックス

第18 所長室を飾る2枚の感謝状

熊本市内を襲った大水害
 税大熊本研修所の所長室には、2枚の感謝状が掲示されている。
 いずれも税大本校からのもので、1枚は熊本市内を襲った大水害時に普通科生徒が人命救助など大活躍をした時のもの。
 水害時、私は中学生だったから、昭和27、8年だったと思う。普通科12期か13期ぐらいの時か。何しろ凄い水害で熊本市内を流れる白川と坪井川が一緒になってしまって、挟まれた位置にある新市街、下通り、上通りの市内一番の繁華街が水浸しになってしまった。かなりの死者が出たはずである。
 白川の源流は阿蘇であるから、水が引いたあとも火山灰が泥となって市内に残り、これを片づけるのが大変で市内は暫くの間は泥の山と化した。橋という橋は流されてしまい、無事だったのは吊り橋だった長六橋ぐらいのもので、熊本市内の白川最上流に架かっていた子飼橋は鉄筋コンクリートの橋が跡形もなくなっていた。
 税大熊本研修所は、白川のすぐ近くにある。水の被害に無事では済まなされなかったと思うが、この時の普通科生が、懸命な働きをして、流されてくる人々を救助したというので、本校から感謝状が贈られ、所長室を飾っているのである。
 その後に、熊本市の中心を流れる白川は大改修され、堤防は強化されて、大水害はなくなったが、熊本城下を流れる小さな坪井川は、たびたび氾濫して川筋にある家屋に被害をもらたした。
 実は、私達がまだ生徒だった昭和32年にも坪井川が氾濫して、教育官の横田先生の家も床上浸水の被害にあっている。
 普通科生全員で横田先生のお宅に伺い、畳を干したり、家具を片づけたり、復旧のお手伝いをしたが、まだまだ、給料も少なくて自由に飲食もできなかった時代だから、バケツに飲み放題のカルピスが用意されていたのはうれしかった。

インフルエンザの大流行
 さて、問題なのは、所長室に掲げられたもう1枚の感謝状。実は、こちらには私達普通科17期生が大いにかかわっているのである。
 この感謝状は、昭和32年、すなわち私達が生徒の時に本校から贈られたものなのである。
 昭和32年当時に何があったのかというと、それはインフルエンザの大流行。この年は全国的にインフルエンザが大流行して、病原菌は香港A57と名付けられた。
 この病原菌が普通科第17期生を襲ったのが昭和32年秋口のこと。一人が高熱に倒れたあと、バタバタと次々に感染して普通科生29人中27人が病にふせってしまった。
 当時、畳敷きの西寮はなくて、北寮、南寮だけだったから、寮の各室は板敷きで二段ベッド。唯一の畳敷きの間は南寮1階の娯楽室だけであった。この娯楽室は、かなり広く取ってあった。寮生は第16期生までは60人いたので、半数の17期生には余裕のある間取りになっていたのである。
 なぜ半数になったのかというと、それまでは金沢局採用の30人が、熊本研修所で学んでいたのである。
 17期生になって、金沢局採用者は他の研修所で学ぶことになり、熊本研修者は九州一円からの採用者だけになってしまった。
 これが幸いしたのか、比較的に余裕のあるスペースとなって、娯楽室が臨時の隔離病棟として機能を果たすことになった。
 娯楽室には二列にずらりと布団が並べられ、生徒の枕元では看護婦の野村さんが頭を氷で冷やしたり、氷枕を取り替えたり、甲斐甲斐しく看病した。
 生徒29人中27人が病人になったのだから、当然に授業はできず、数日間の休校措置が取られた。
 この時の看護婦野村さんの活躍に対して感謝状が贈られたのである。
 ちなみに、この時にインフルエンザにかからなかった2人の生徒は誰だったのか。
 一人は米村さん(同期生でサン付けの人とクン付けの人がいるのは、サン付けは年長の人で、クンで呼び合ったのは同じ年令の仲間。一緒に寮生活しているうちに、自然にこういう呼称が定着してしまった)。
 もう一人が誰であろう私なのある。
 同室の鹿島さんは、いち早く隔離病棟行きになったのに、私だけは最後までインフルエンザの兆候もなかった。もっとも、それまでにちょくちょく風邪はひいていて、市販の薬を飲んでは直していたから、軽い症状の時に免疫ができていたのかも知れない。
 昔から、頭の悪いやつは風邪をひかないといわれているようであるが、そう思われても癪だから、教務係でちょっと盗み見した私の卒業時の成績順位をご披露しておこう。そこには29人中の第8位とランクされていた。決して頭が悪いわけでもないのである。

懐かしい風景『往診』
 わが国では、周期的にインフルエンザが大流行するようであるが、私が教育官補の任にあった昭和39年は、新聞紙上を賑わすような大流行にはならなかった。それでも39年の秋口に西寮の生徒に患者が出た。
 もう、消灯後のことであったが、同室の生徒が心配になったとみえて、私を呼びにきた。
 行ってみると、布団の中でウンウンうなっている。ひたいをさわってみると相当に熱い。高熱のようである。昼間であれば看護婦の野村さんが教務室に常勤しているから、野村さんに任せればいいけれども、夜間ではそうはいかない。現在では、ちょっとした病気でも救急車を呼んだりしているが、当時は病人を救急車で運ぶという発想はなかった。
 北寮の宿直室にいた教育官の先生に連絡を取ったら「校医の先生に連絡して往診して貰ったらどうだろう」という。
 校医は、確か清原医院といったと思うが、近くにあった。しかし、この時間には、もう、閉まっている。とりあえず、電話をかけてみたら、先生は在宅されていて、「すぐ行きます」という返事。助かった。
 校門を開けたり、消灯を解除したりして待つこと20分。先生は看護婦一人を伴ってかけつけてくださった。
「時間外なのに申し訳ありません」
「いや、すぐ近くなんでね。患者さんはどんな様子ですか?」
「熱がひどいようです。ウンウンうなっています」
 すぐに枕元にお通しする。暫く診察していたが、
「インフルエンザですね」
「今年は、さほど流行していないようですが」
「そうでもないですよ。うちの患者さんではインフルエンザが一番多いです。とりあえず、注射をしておきましょう」
 看護婦さんをうながし、手なれた手つきで準備にかかる。
 往診といえば、私の子供の頃に何度かお医者さんに来て貰ったことがある。母は洗面器に水を入れ、タオルを準備していたっけ。
 幸いにして私の手持ちに新品のタオルがあった。階下に降りて、洗面器に水を張り、真新しいタオルをそえて出す。
 診察を終わった先生が、洗面器の水で手を洗い、タオルで手を拭いている。幼い時の光景がそこにはあった。
 寮などの集団生活では、必ずといっていいほど、一人発症すれば、次から次に感染して行くもので、私も生徒の頃を思い出したりして心配したが、この時は、発症してすぐ治療したのが効果を奏したのか、2、3人が風邪かなという症状を示したのみで鎮静化してしまった。
 思えば生徒の24期生で、これといった病気にかかった者は皆無であった。消灯後に外出しようと窓から飛び降りて足をくじき、松葉杖生活をした生徒が唯一の長期療養者ということになるが、これなどは自業自得というものであろう。しかし、きっちりと授業には出てくれた。
 24期生は昭和20年生まれが大半だったと思うが、終戦直後の食糧難の時代に幼年期を過ごしているから、少々の環境ではへこたれないという体質ができあがっていたのかも知れない。