ゼイタックス

6話 養鶏業の所得標準率表を作る

事前調査
 7月の定期人事異動を経て、秋口になると、所得税係は事前調査にかかる。当年分、すなわち昭和33年分の所得調査をするのだが、当年はまだ数ヵ月を残しているので事前調査ということになる。
 私が勤務する菊池税務署は地域担当になっていて、私は西合志村を担当することになった。管内地域で説明すれば、菊池郡下では一番熊本市寄りにあって、一部は熊本市に接している。大都市に隣接するからといって商店街があるわけではない。商店が10店も並ぶのは、村の中央を横断している菊池電車の駅周辺だけ。
 菊池電車の正式名称は熊本電軌鉄道というが、熊本市と菊池市を結んでいて、主に菊池郡内を走っているので、誰でも菊池電車といった。見るからにオンボロ電車で、パンタグラフではなくて、車両の後部のポールという細長い棒の先についているワッカで上の電線から電源を得ていて、下り坂に差しかかると車掌がポールの紐を引っ張って電線からはずし、下り終わるとまた電線にはめる。はめる際に目測を誤って、両側から吊っている電線を切断することしばしばで、断線で電車がストップすることなど日常茶飯事のことであった。それでも郡内唯一の交通機関であったから、熊本市内に通うサラリーマン、OL、学生など結構利用客は多かった。
 私が担当する西合志村には辻久保駅、大池駅、御代志駅、須屋駅の4駅があって、駅周辺には乗降客目当ての店ができていたのである。あとは、あちらの部落に雑貨屋が1件、精米所が1件などとポツンポツンと店舗がある程度。
 なぜ、事前調査が必要かというと、当時は記帳義務などなかったから、その年内に店に臨場しておく必要があった。前年に比し何か大きな変動があったのかどうかは、年内に顔を出して確かめておかなければわからない。この事前調査の見込み所得が、翌年の確定申告での納税相談の際の申告しょうよう額になるのである。もっとも、事前調査はあくまで事前のものであって、確定したものではないから、見込み所得よりも少なく申告されたからといって、すぐ更正処理になるとは限らない。大きな開差があった場合に、今度は事後調査対象に選定されて、もう一度、税務調査を受けることになるのである。
 事前調査は、申告所得を基準にして大きなものから実額調査1日1件、実態調査1日2件、概況調査1日10件となっていた。私の担当した西合志村は殆どが概況調査に該当する店ばかり。ポツンポツンと離れた場所にある店を1日に10件もまわるのであるから、調査時間などは1件に20分もかけられない。前年と変わった点はないかとか在庫はいくらぐらいあるかを聞いたら、ハイ、サヨウナラである。

威力があった30年代の所得標準率表
 そこで威力を発揮してくれたのが、所得標準率表。小冊子になっていて、業種別に100円当たりどのくらいが所得になるのかが一覧表になっている。これは所得税係官全員に配布されていた。うしろに効率表というものもくっついていて、例えば、雑貨であれば年間の在庫回転率7・5回、食料品23回転などと業種別に一覧表になっていて、こちらは年間売上を算出するためのもの。食料品店で在庫が20万円と聞くと、効率表で23回転させて460万円の年間売上額を算出、次に所得標準率を見ると所得率15%と出ていて、460万円×15%でこの店の所得は69万円となるのである。
 所得標準率表というのは、今考えるとすごいすぐれものということになるが、ついこの間まで存在していたとみえて、数年前に競馬の一流騎手達がこぞって所得の申告もれを指摘されて修正申告をしたという記事が出た。「税務には協力していて、指導を受けていたとおりで申告してきたのに…」と不満のコメントをするトップジョッキーがいたが、当人達はこれまでの慣行で所得標準率による所得申告で済ませていたということであろう。
 現在の文明の世の中においても、これに頼るといのも情けないが、昭和30年代の所得標準率表には相当の威力があった。

所得標準率表には未掲載の養鶏業

 ある日のこと、私は田麦係長に呼ばれた。
「あのね。局から養鶏業の標準率を作ってほしいといってきているんだけど、合志村に養鶏業が数軒できているじゃない。実額調査をやってくれないかな」
 所得標準率は、業種ごとに国税局から指定された数署が、管内の業者を実額調査して、その数値を報告し、その結果によって決められるのだという。合志村は私の担当地区ではないが、担当の西合志村とは隣接していて、臨場する際に菊池電車を使う点では同じである。
「養鶏業というのは、まだ所得標準率表には載っていませんよ」
「そうなんだよ。庭先の鶏に卵を生ませるというのは、どこの農家でもやっているだろうけれども、採卵を業として鶏にケージで卵を生ませるなんてことは、最近のことだからね。うちの管内でも、あるのは今のところ合志村だけだろう」
「3千羽ぐらいの白色レグホンを飼っているとは聞いてますが…」
「数年前にできたばかりというから、どのくらいカネがかかったかも分かると思うんだ」
「ほかの業種だったら、前年までの標準率表の数字がありますから、ある程度は参考にもできますが、何にもないんじゃ、突飛な数字になるかもわかりませんよ」
「それはかまわないよ。うちの署だけに依頼しているんじゃないんだから。あまり現実的でないと判断したら採用しない筈だから」
 1年目の若造に、これまで掲載されたことのない業種の所得標準率表を作成させるというのも無茶な気がするが、係長の命令とあればやらざるを得ない。所得調査カードを持たされて、養鶏業者の実額調査に行くはめになった。業者には予め連絡して、売上に関する記録や経費の領収証類はそろえておいて貰うように依頼した。

実額調査の結果、養鶏業の所得率は17%
 目指す養鶏業者は、菊池電車の須屋駅から10分ほどのところにあった。
 広大な原っぱにケージがならんでいる。中にはすし詰め状態の鶏が一心に与えられた餌をついばんでいて壮観である。玄関口に一家総出で迎えられた。立派なスーツ姿の紳士もいて、名刺を見ると、肩書に熊本市助役とある。
「えっ、熊本市の助役さんですか」
「ええ、ここは弟がやっていましてね。税務調査は初めてだというので、休暇を取ってきてみたんです」
「税務調査といっても、そんな大げさなものじゃないですよ。まだ年末まで数カ月ありますから、これで所得が決まるということでもありませんし…」
「弟は、養鶏業を一昨年に始めたばかりで、経理もよくわからないんです。よろしくお願いします」
 熊本市の助役さんをそばに侍らせてという奇妙な税務調査になったが、証拠書類の保存状況は極めて良好で、これなら収支計算ができる。
 夕方までには、経費の各項目別の数値も把握できて、調査は終了した。
「今年は、若干所得が出そうですよ」
「昨年まではケージを作ったりカネがかかりましたけど、今年は幾分余裕は出てきたなあとは思ってはいるんです」
「これだけ証拠書類が揃っているんだから、帳簿をつけて青色申告にしたらどうですか」
「そうですね。帳簿をつけないと、自分でもいくら儲けがあるのか分からないですものね」
 署に帰って、その日のうちに計数報告のための整理をする。田麦係長が側に来た。
「どう、計数は把握できた?」
「原始記録は全部取ってありました。何とかできそうです」
「いやあ、ありがとう。こんなことは商業高校出でないとね」
 へんなところで、商業高校出身を持ち出されても困る。
 それでも、何とか収支計算ができて、所得率は17%と出た。この数値がいいのか悪いのかは皆目分からないが、国税局への報告書類を作成する。
 数ヵ月後に、新しい本年の所得標準率表が国税局から送付されてきたが、載っていました養鶏業の所得標準率が…。
 そこには所得率15%となっていて、私の調査結果とは2%の差があったが、果たして私が報告した数字はいくらかでも参考にされたのであろうか。

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