ゼイタックス

第13 超豪華な部門旅行

初めて本州へ足を踏み入れる機会
 私が日南税務署に赴任して2年目の昭和39年春の部門旅行は、これまでにない豪華なものであった。別府港から関西汽船で四国に渡り、金毘羅さんや道後温泉などの観光の後に本州に移動して、広島原爆ドーム、岩国錦帯橋などを見て日豊本線経由で帰ってくるという3泊4日のコース。
 実をいうと、私はそれまでに一度も本州に足を踏み入れたことがなかったのである。旅行といえば学校の修学旅行があるが、小学6年生の時は有明海の長洲海岸。場所は熊本県玉名郡にある。国鉄を利用したのはいいが、貨物列車に押し込まれ、まるで荷物扱いだった。中学校の時は福岡県久留米市と大牟田市。ブリッジストンの靴工場などを見学したが、こちらは熊本県からは一歩外には出たものの、九州から外に出ることなど及びもつかなかった。
 ついでに高校の修学旅行はどうだったかというと、行き先は関西旅行で一応の修学旅行の形は整えているが、参加資格があるのが女生徒ばかりで、男子生徒にはなかった。男子は卒業後に、いくらでも東京・大阪に行く機会があるというのが学校側から説明された男子排除の理由である。
 そうは説明されたのだけれども、現実に社会人になって7年になろうとしているのに、私は、一度も九州から外に出ていなかったのである。
 そんなに行く機会などないぞと思っていたら、部門旅行で、広島以西の本州の切れっ端ではあるけれども、足を踏み入れる事が出来るのだという。日本人として生まれたからには、本州に足跡を残したいというのが夢でもあったから、思わぬ機会に胸が躍った。

「女性の人はこちらですよォ~」
 旅行積立金がこの年に特に多かったわけではないのに、豪華な旅程が組めたのは、初日の1泊を船中泊、最後の帰りの1泊を列車での車中泊にしたからである。宴会用は道後温泉の1泊のみ。これだと泊料金は乗車、乗船料に含まれてしまうので、3泊4日の行程でも何とか賄える。問題は年次休暇。普通は部門旅行というと、2泊3日止まりで、金曜日、土曜日の1日半の年次休暇を取って行くというのが一般的である。3泊4日となれな木曜日も年休が必要になるが、こちらも、すんなりと署長のOKがでた。
 こうなれば欲も出るので、木曜日に早めに出て、別府の地獄めぐりでもしようかということになった。堀さんが大分出身で案内を任せなさいという。
 もっとも、所得税係、法人税係、資産税係大合同の部門旅行だったから、ほかにも別府税務署に勤務した経験がある人が何人もいて、案内役に不自由はしなかった。
 関西汽船の船舶中は、大部屋に毛布にくるまっての雑魚寝である。
 この雑魚寝では、後年になって面白いエピソードを聞いた。
 上京後の練馬税務署法人税調査官時代。私の隣の席にいたのが上席調査官の西郷さん。西郷さんといえば鹿児島だが、この西郷さんは長崎の人だった。福岡局官内に20年ほど勤務した後に上京した人である。何かの拍子に私と同期の奥村君の話題になった。奥村君は当時、大蔵省銀行局に勤務していたが、税務講習所卒業後には福岡県・行橋税務署所得税課に配置になった。
「奥村さんと同期なんだって?」
「ええ、彼は熊本県出身なんだけど、福岡官内に配置になりましてね」
「行橋税務署で私の隣に席があったんだけど、ひょうきんな人でね。部門旅行で四国に行ったんだけど、船に乗るとすぐに部屋の前に立って、女性の人はこちらですよォーと呼び込みを始めてね。おかげで、私達のまわりは全部女性ばっかりになってしまって、これには笑ったね」
 彼は熊本・済々高校の出身で、元広島カープ古葉監督の1年後輩にあたるが、色白の優男だった。しかし、もう、10年ほどになるのであろうか、私達同期の29人のうちで、唯一、鬼籍に入ってしまっている。

嬉しい誤算で大型バスでの大名旅行
 四国は金毘羅さんの長い石段に挑戦してみた。のぼっても、のぼっても石段は続いていて、とうとう、中程で皆が音を上げてしまった。私だけだったら、上まで行っただろうけれども、団体行動ではそうもいかない。一旦休憩ひて下りることになった。
 道後温泉で疲れを癒し、恒例の宴会。芸達者は菊地税務署にいた頃の方が多かったみたいで、ここではこれといって記憶にとどまっているものはない。
 翌日は待望の本州に渡り、原爆ドーム、岩国錦帯橋などをめぐったが、ここで、うれしい誤算があった。
 直税課合同旅行とはいっても、20人足らずのものであるから、本州内での移動用にマイクロバスを頼んでいた。費用もぎりぎりものだし、肩をすりあわせるのも仕方がないだろうという背景があったからである。
 ところが、本州に上陸しても待てど暮らせどバスがやってこない。
 そこで、バス会社に電話したら、今度はバス会社が慌てた。手違いがあってマイクロバスは出払っているのだという。こちらは当日の夜行列車に乗るのだから、日程が詰まっている。どうにかしてくれ、と談判した結果、バス会社が大型バスを寄越してきたのである。バス会社の手違いだから、追加料金は必要ないという。
 これには、みんな大喜び、二つの席を独り占めしての大名旅行となったのである。悲惨な原爆記念館、歴史を思わせる錦帯橋、岩国基地の巨大な米軍機、何もかもが脳裏に焼きつくものばかりだが、大型バスをわずか20人足らずで貸し切ってという、超豪華な部門旅行は無事に終了したのであった。

思いがけない税大熊研への出向辞令
振り返ってみると、こういう記憶に残るような部門旅行は節目にあたるとみえて、そのあとに、何かと身辺に変化があるようだ。
 この部門旅行があったのは、昭和39年の春のこと。私は、昭和37年7月に日南税務署に赴任しているから、まだ、日南は2年足らず。誰も転勤などということは考えていなかった。都会では、役付職員は2年ぐらいで配転になっているようだが、田舎は転居を伴うから、そう頻繁に転勤になっては、落ち着くひまもない。役付職員でさえも3年ないし4年というのが一般的な配転のサイクルなのである。
 人事などの希望を書く「身上申告書」は、毎年4月1日付けで提出するが、私は「特に希望はない」という項目にチェック印を入れた。赴任2年目では当然のことではある。
 あと2年ぐらいは日南税務署に在勤するだろうし、それを苦にするものは何もないから何の躊躇もなく書いた。
 配転の可能性があるのは後輩のトヨタカさん。彼は4年目に入っている。
「トヨタカさんは転勤だね」
「出身地でもいいですかね。小林税務署を希望しようと思うんです」
「いんじゃない。誰だって出身地に一度は勤務しているみたいだし」
「あと、どこいらにしますかね」
「宮崎税務署とか近くがいいんじゃないかなあ」
 他人の心配ばかりしていたのだが、あにはからんや、7月10日の定期異動日に呼び出しがかかったのは、山本トヨタカさんではなくて、私の方だった。
 署長が辞令を手にしながら言う。
「大変な仕事だからね。頑張ってね」
何が大変なのか。恐る恐る受け取った辞令を開いてみた。
「国税庁へ出向させる。(税務大学校熊本研修所教育官補に配置換えする)」
 辞令には、そう書かれていた。これまでの職員記録に税務大学校教育官補という肩書きの人はいない。どんな仕事になるのだろう。不安がよぎった。

14:税務大学教育官補